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これだって、史跡。 [関ケ原東西武将隊]

関ケ原東西武将隊の特設ステージがあった笹尾山山麓にあった「詰所」と呼ばれる小屋。
関ケ原のグッズ、やぎ乳アイス、そして秋からは武将隊のグッズが並んで、
小さいながらも、ちょっとしたオアシスのような場所だった。
10月で営業を終え、暫くそのままになっていたが、12月中旬、取り壊しを前にこんな姿に……。
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これもまた、ひとつの史跡のようだ。

隣接する旧北小学校を本拠にしている関ケ原東西武将隊にとって、
ここにあった自販機は、かなり重要なアイテムだった。
東京にいるときは飲み物の自販機なんて、何とも思っていなかったが、
関ケ原笹尾山の自販機は、まるで泉のようなキラキラした存在だった。
都会の暮らしは、この世のいろいろな有難みを忘れてしまいやすい環境なのかも知れない。
そして便利過ぎると、生き物としての感覚も忘れてしまいそうだ。
人間、謙虚さを忘れないためには、ほどほどの不便があったほうがいい。
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関ケ原東西武将隊の活動前半を共に戦ってくれた「詰所」くん、お疲れさまでした!
ちなみに詰所が建っていた場所は現在、完全に更地になっていて、
当時を偲ぶ遺構などは何も残ってはいない。(←あえて史跡の案内風に)
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それぞれの正義 [日々雑録]

月見の宮大杉がそびえ立つ福島正則陣跡から南方へ坂を下っていき、
新幹線の高架をくぐり、名神高速をくぐると松尾山の山麓にある脇坂安治の陣跡。
関ケ原合戦で「寝返り」というと、真っ先に小早川秀秋の名前が出てくるが、
寝返りは彼だけではなく、実は結構いる。
松尾山の山麓で藤堂高虎や京極高知らと対峙していた小大名、
脇坂安治や小川祐忠、赤座直保、朽木元綱。
そして合戦に参加しなかった、はるか南宮山の毛利勢も、
消極的な寝返りと言っても過言ではないだろう。
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「寝返り」、「裏切り」。世間的には悪の印象が濃厚な言葉であり行為だが、
本人たちにしか分からない事情もあっただろうし、それぞれの正義があったのだろう。
脇坂安治もまた戦乱を生き抜くためにかねてから徳川家康に通じていたという。
関ケ原合戦は東軍西軍と言われているが、実際の411年前は、
「東西」などという綺麗な分かれ方などではなく、
それぞれが、それぞれの運命を負って、この地にやってきていたに違いない。

言葉はそれぞれ言霊を持つだけに、言葉の印象に染められやすい。
けれども、人の思いはいつだって、誰だって、どこでだって、
そんな単純なものではないことを忘れないでいたい。
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神様から、お裾分け。 [関ケ原東西武将隊]

関ケ原松尾地区の福島正則陣跡には、樹齢800年の「月見の宮大杉」という巨木がある。
春日神社の境内に立つこの杉の木はなんと関ケ原合戦図屏風にも現れる。
411年前の合戦の時点で、かなり大きい木だったということだろう。
その木が、今、僕らの前にいまだ立っている。
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だが、昨年、枝が折れてしまった。
枝といっても、まるでもうひとつの幹のような超極太の枝。

聞いたときにはびっくりした。
どうやら、枝自身の重みに堪え切れずに折れてしまっていたらしい。
声は上げないけど相当痛かっただろう。生きものだからね。
その「患部」はいまこのように手当てされている。生きものだからね。
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で、この折れてしまった巨大な枝、何処へ行ったかというと。。。
なんと関ケ原の木材会社「マルセ木材」さんが、関ケ原を愛する皆さん向けに
グッズを作って再利用するのだそう!いいこと考えますなあー。
きっと宮大杉さんも喜んでくれていると思うなあー。
なんてったって、800年前からこの町を見守ってきたご神木。
きっとご利益あるはずだよ。

春日神社にも、輪切りにされた枝が奉納されていた。やっぱり大きいなあー。
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あれっ、写真に何やら見覚えのある色彩を放つ面々が写っているぞ。


関ケ原東西武将隊じゃないか!!!


彼らもついに神社に飾られたか……。
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関ケ原東西武将隊による宮大杉リポートはこちらをどうぞ。

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新旧街道のらせん [日々雑録]

旧街道沿いにできた国道というのは、だいたい新道であるケースが多い。
一方で旧街道は、まるで直筆で書いた直線のように、
並走する一直線の新道に絡まりあいながら、適度に蛇行して存在していることが多い。
垂井一里塚を過ぎて、おとなり関ケ原町の最東端・野上にかけて、
関ケ原町・垂井町の旧中山道もこのパターンだ。

国道21号線と東海道本線の線路に挟まれて、旧道は現在、閑静な生活道路になっている。
そして、松並木がところどころに残っていて、江戸時代の街道の情緒を残している。
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なんだか、こういう景色、テレビの「水戸黄門」のラストシーンとかで見たなあ。
「助さん、格さん、そろそろまいりましょーか。」

ここから見た山と空の景色は、きっと300年前と何も変わらないのだろう。
唯一その手前を文明の機械が走る道が貫いていることを除いては……。
大動脈の役目を終え、江戸時代よりも却って静かになった旧中山道のほとり、
野上の六部地蔵さまも、こののどかな風景をずっと見ている。
はたして300年後は何が変わり、何が変わらないままなのだろうか。
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浅野幸長陣跡 [垂井町日守] [日々雑録]

国道21号線を走っていると、「日守」という信号において、旧中山道と斜めにクロスする。
そこを左前方へ折れてゆくと、すぐ左手にこんもりとした丘が現れる。
これは徳川家が幕府を開いたあと、全国の道路交通網を整備したときに作った「一里塚」。
主要な街道に約4kmおきに作った一里塚には茶屋も設けられ、旅人たちは疲れを癒したらしい。
現代でたとえるなら、高速道路の「サービスエリア」みたいなものかな。
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なんと、この垂井一里塚付近が、関ケ原合戦における浅野幸長勢6500の陣跡。
御所野に布陣する池田輝政らとともに南宮山の毛利勢に備え、
また万一の際の徳川勢の退路確保のため、この付近に駐留したという。

一里塚の史跡としては、大変素敵な状態で保存されているが、
浅野勢の陣跡を示すものは、丘に建つ説明版の文章以外に何も残されてはいない。
ちなみに浅野幸長さんは、「あさの・よしなが」さんと読む。
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「垂井」の発祥地。 [日々雑録]

関ケ原町のとなりまち「垂井(たるい)町」。
「かったりぃ~」とか、もじられそうな響きだが、何だかかわいい地名。
でもまさかその地名の由来が湧水だなんて……(地名だいすき!)。
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垂井町の中心部にある大ケヤキ。(なんか垂井には巨木が多いなあ。)
そのケヤキの根元から湧き出ている水は涸れたことがないという。
この湧水こそが「垂井」の地名の発祥らしい。

昔は水道なんて便利なものがなかったから、川とか湧水という存在は、
生活のため、一族繁栄のため、かなり重要なアイテムだったことだろう。
便利になった今の時代でさえ、きれいな水を見ると心が安らぐのは、
そうした先人たちの想いが僕らのDNAのなかに入っているのかも知れないなあ。
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池田輝政陣跡 [垂井町御所野] [日々雑録]

白鷺城の名で有名な姫路52万石の大名池田輝政の陣跡が、垂井町の御所野にある。
21号線を垂井から関ケ原に向けて走っていると、左手に「春王・安王の墓」という看板がある。
目印はそれだ。小道を入ってゆくと墓地があり、その中にひっそり小さな石碑が立つ。
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池田輝政は小牧長久手の戦いで父と兄を失い、若くして当主になる。
関ケ原合戦では徳川方に加担、前哨戦の岐阜城攻めで福島正則とともに大活躍。
合戦では南宮山の毛利勢に備え、この地に陣を構えた。


そして、国道から見える看板にもあった「春王・安王の墓」。
関東公方・足利持氏の子で、幕府方に対抗する関東の大名に擁立され戦ったが敗北。
京都に護送される途中、将軍足利義教の命令で、垂井の金蓮寺で斬首されたという。
二人の首は京都で晒されたあと、この地に葬られた。春王は13歳、安王は11歳だったという。
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兄弟仲良く、まさにぴったりと寄り添うように宝篋印塔が建っている。
そしてその右手には乳母の供養塔が建ち、しっかり二人を見守っている。

このあたりの地名「御所野」について調べてみた。
「御所」とは、もともと天皇の邸宅を意味する言葉だが、
時代が進むにつれ、将軍や公家の所在地にも使われるようになったから、
もしかすると、地元の人たちが幼くして命を奪われた二人を慕って
「御所さんが眠る野」、という意味をこめて、そう呼ぶようになったのではないかと。

違った。

かつてこの町にあった美濃の国府に天皇が行幸する際、
相川を挟んだこの付近に仮の御所を構えたという言い伝えから、だという。
はずれた。ちょっと残念。
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絆の跡。 [日々雑録]

垂井町五明稲荷。ここはかつて竹中家の家老・不破矢足の屋敷があった場所。
で何なのか、と言うとここは関ケ原合戦で大活躍した黒田長政さんが幼少期を過ごした場所。

黒田官兵衛の名で有名な長政の父・孝高さんは竹中半兵衛と並び秀吉公の軍師として有名。
その孝高さんが、織田信長に謀反を起こした荒木村重籠る有岡城に軍使として向かったとき、
必死の説得及ばず、逆に孝高さんは城内の牢に幽閉されてしまう。
信長さんは、それを孝高さんが寝返ったと判断。(荒木村重と孝高さんは親交があった)
息子の長政さん(当時は松寿丸くん)を殺せと命じる。
しかし、竹中半兵衛は官兵衛が裏切るはずはないと思い、
信長さんの目を盗んで、領内のこの地に松寿丸を匿った。
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その約20年後の慶長5年、成長した黒田長政はこの地にほど近い関ケ原で大活躍。
そして彼は一躍、福岡藩の大大名に出世したというわけだ。
長政さんはいったいどんな思いで慶長5年9月を過ごしていたのだろうか。

五明稲荷には、若き日の長政さんがこの地を離れる際に植えたと伝わる銀杏が今も立っている。
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宝を繋いでゆく。 [日々雑録]

半兵衛さんの菩提寺、禅幢寺に行く途中に竹中氏陣屋跡がある。
「陣屋」とは居館のこと。1万石以上の大名の場合は「城」になるが、
それ以下の身分の場合、それら氏族の本拠は「陣屋」と呼ぶそうだ。
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しかし、門や石垣が立派に保存されていてびっくりした。
門の前には凛々しい竹中半兵衛さんの銅像が鎮座し、
門両脇の石垣もかなり当時の遺構が残っていた。

これらをここまで良好な状態で保存してきたというのは、
いかに竹中家が地元の方々に愛されてきたかということだろう。
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貴重な史跡を次代へと繋いできてくださった皆様に感謝。

門をくぐるとこれまたびっくり幼稚園があった。みんなすくすく育つに違いない。
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竹中半兵衛さんに会いに。 [日々雑録]

秀吉公の軍師として知られる竹中半兵衛さんの菩提寺、禅幢寺へ。
関ケ原ウォーランドの伊藤館長にも薦められていたところで、ようやく行くことができた。
垂井の北、岩手地区という閑静な場所に禅幢寺はある。
門の両脇には竹中半兵衛の幟、そして立派な鐘楼が目に飛び込んでくる。
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竹中半兵衛さんというと、僕はなぜか「透明」なイメージを持っている。
戦国時代の稀代の軍師でありながら、血なまぐさい匂いは一切せず、
むしろ人間は無論、動物、虫、草木にいたるまでの「いのち」を想い、
かつ、それらにふわりと寄り添った、「透明」な印象。

播磨三木城攻めの最中に36歳の若さで陣没し、
数年後、息子の竹中重門さんが、この地へ移葬したのだそうだ。
禅幢寺の本堂は、半兵衛さんの孫の重常さんが建てたものだそうで、
おそらく半兵衛さんの存在は、その後の竹中家にとっても大きなものだったのだろう。
本堂裏手の丘陵地の麓、いろんな方のお墓を見守るように半兵衛さんは眠っていた。
やはり質素なお墓。お人柄を感じさせる。
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